みつめてナイト ソフィア・ロベリンゲの考察

エゴイズムとアルトルイズム 〜ソフィアの考察1

16人のヒロインを利己主義(エゴイズム)という視点で見た時、
あまり適合しないというキャラが数人います。
ソフィアはそのうちの一人ですが、作中でエゴという表現を使う数少ないキャラでもあります。
これはこれで興味深い話題なので後で考察するとして、
まずは何故ソフィアにエゴという言葉がなじまないかを検証してみることにします。

ソフィアの家は作中で唯一登場する父、ロバートと、作中に登場しない母、弟の4人家族です。
このうち、ロバートは元は優秀な騎士だったものの、
脚を負傷して騎士団を追われた後は自暴自棄になりアルコール依存症になっています。
母は病弱、弟は生まれつきの精神障害で、母は弟が可愛そうだと思っていたので
ソフィアはあまりかえりみられなかったようです。
ジョアンは父が勝手に決めてきた婚約者で、エゴの塊のような男です。

そんな中でもソフィアは文句一つ言わず、細腕で肉体労働も掛け持ちしています。
(父親の暴言やジョアンの金権主義的な歪んだ思想には反論もしますが)
唯一エゴといえるのは東洋人への想いと歌を歌いたいという夢の部分だけですが、
東洋人がソフィアをさらわない限り、ソフィアはジョアンと結婚してしまいますし、
ジョアンと結婚する事になった場合、ジョアンに反対されれば歌も諦めるでしょう。
つまり、ソフィアはむしろ他人のエゴイズムに常に翻弄される存在であり、
彼女自身のエゴの入り込む余地は殆どありません。

自分よりも他人の幸せを優先するという概念には利他主義というものがあります。
これは文字通り、この作品のテーマの一つである利己主義の対義語です。

利己主義(Egoizm:エゴイズム) : 自分の利益のみを考え、他人を顧みない考え方
利他主義(Altruism:アルトルイズム) : 自分自身より他人の利益を優先する考え方

エゴイズムに比べ、アルトルイズムという言葉は聞き慣れないかと思います。
逆に、それほど現実離れした考え方ともいえるのかも知れません。
利他主義というのはむしろ宗教的、道徳的な概念を説明する時によく使われる用語です。

ソフィアの場合、家族が好きなので、少々自分が辛くても我慢しようと思っているように思えます。
あるいは、辛い現実から目を背向ける為に、そう思い込もうとしていると言った方が
より正しいのかも知れません。
東洋人に平手打ちをしたのは、そういう鬱積した感情の爆発にも思えます。
ただ、そうだとしても、家族のために自分を追い込められるというだけで
利他的な精神の持ち主である事は間違いありません。

特にエンディングで自身を屈折したエゴイストという理由
「家族の為に自分を押し殺す」
これは利己ではなく、文字通り利他の精神です。

しかし冒頭で述べたように、ソフィアは「自分はエゴイスト」という発言をします。
これは何故でしょうか。
いずれも問題ありの、ソフィアがいないとどうにもなりそうにない家族を置いて
出国しようとするからでしょうか?

確かにそれもあると思います。 特にソフィアにとっては身を裂かれるような決断でしょう。
ただ、家族や友人を置いていく、東洋人のお荷物になるかも知れないというのは
別にソフィアに限った事ではなく、ヒロインのほぼ全員が該当します。
つまり、途中経過に関係なく、エンディングの時点では16人全員がもれなくエゴイストです。
その中でも最もエゴと遠い位置にいる1人であるはずのソフィアをエゴイストと呼んだのは
私は脚本に痛烈なメッセージが隠されているためではないかと考えました。

それは、「利他主義も利己主義の一種である」というものです。
人間である以上、自分の幸福を望まないはずはない。
利他主義を標榜している人であってもその例外ではなく、
最終的には自らの望み(例えば家族の幸せなど)を叶える為の行動である…といったものです。

ただ、誰かのためになりたいというのも欲求に基づくもの=エゴで、全く異論ないのですが、
反面、利他の精神を利己主義と同一視するのは危険な事では?という疑問がずっとありました。
なので、私はこのような設定にする意図を掴みかねていたのですが、
この部分に関して匿名希望様から重大なヒントを頂く事が出来ました。
それは心理学における「自己愛」という概念です。

ハインツ・コフートという心理学者の提唱した自己愛理論というものがあります。
コフートは自己愛(自分を愛する事)と対象愛(他者を愛する事)は表裏一体と考え、
健全な自己愛なしに対象愛を達成する事は出来ないと考えました。
これは言い換えると、まず自分を愛する事が出来なければ他人を愛する事は出来ない、
つまり、利己のない利他には限界があるという解釈にもなります。

確かに、エンディング前までのソフィアの利他精神は全て空回りしていました。
(他人に幸福を譲り、自分自身はどんどん不幸になり、結果的に他人も不幸にするという構図)
その理由とはソフィアが自分自身を愛していなかった(自信がなく、自己評価が低かった)から。
つまり、自分を犠牲にしても他人の幸福を望むという自己犠牲型の利他主義には限界があり、
その歪みの為に、自分だけではなく他人まで不幸にしていたのだ、という具合に説明出来ます。

ソフィアにとっての自己愛とは、ソフィア自身のエゴ=「東洋人への想い」と「歌を歌う夢」です。
そして、グッドエンドにはこれら2つの要素がちゃんと入っていました。
その上で、「例えエゴイストと思われても、自分に正直になりたい」と願う事は、それこそが、
ソフィアの成長を象徴していたと解釈する事が出来るのです。
ソフィアは頑固である意味厄介な性格ですし、最後の一押しをしたのは東洋人です。
しかし、最後の最後で東洋人を選んだのはソフィア自身だというのもまた事実です。

つまり、ソフィアのグッドエンディングは、単に東洋人と相思相愛になったという事よりも
ソフィア自身の成長があったという意味で重要だったと言えるのではないかと考えられるのです。


「エゴイズム」はこの作品のテーマの一つです
(NTT出版の攻略本のインタビューより)
テディーもEDでエゴという表現を使います



以下は電撃PS、NTT版攻略本の裏設定より




方法は間違ってますが、一途ではあります

休み中の採掘現場、漁港、煙突掃除のアルバイト
ただ気が弱いだけでなく、そういう芯の強さはあります
口には出さなかったが、想い続けていたという台詞
グッドエンドにソフィアをさらう選択は必須です

セーラも他人のエゴに翻弄される存在ですが、
ソフィアがある意味、自分の意思なのに対し、
セーラはそれ以外に方法がないという点が違います



同列で議論されるものに功利主義という概念も
ありますが、ここではあまり関係ないので省略します

実際、調べるまで私も知らなかったのですが…






ロバート初登場のイベントで、父親の悪口を言うと
ソフィアに平手打ちされます











東洋人について行くか、行かないかという形式に
単純に当てはまらないキャラが2人います
該当するのはアンとピコですが、
アンは東洋人に昔の恋人を投影し、結果論ですが
自分の願いを叶えるために近づいた、
ピコは東洋人の意思を完全に無視して消えた
(例えそれが東洋人のためであっても)という意味で、
やはりある種のエゴイストといえると思います




一般的な定義での利己主義と利他主義の同一視は
やはり危険で、注意深く扱わなければなりません
ここで述べているのはあくまで独自解釈での話です



コフートは「自己愛」を健全なものと病的なもの
(ナルシシズム)に分けるモデルを提唱しました
この理論はフロイトの発達モデルの自己愛→対象愛が
一方的な推移であり、自己愛はあくまで未発達な状態
であるとした主張に対する反論でもあるそうです
参考:自己愛性人格障害 (Es Discovery様)

海辺のアンとのイベントが分かり易いです
NTT出版の攻略本他より
また、ソフィアは設定的に深いキャラという記述もあり
その理由は田村氏流エゴイズム論の本質に迫る
テーマを持っていたためと思われます




つまり東洋人は二重の意味で恩人になります


そういう意味でも、ジョアンとそのまま結婚する
バッドエンドはやはり救いがありません
明日を夢見て 〜ソフィアの考察2

それでは次に、その上で東洋人はどのような結末を選んだのか、
いや、選ぶべきだったのかについて考えてみる事にします。
他のヒロインのエンディングもそうですが、エンディングの結末は
プレイヤーの想像の余地を残すためわざとぼかされています。
ソフィアの場合、礼拝堂から一緒に逃げたソフィアに導かれて入ったシアターで
ソフィアが明日(希望)の歌を歌ってスタッフロールに突入し、終了します。

告白の時、ソフィアは例え地獄に落とされても東洋人と共にありたいと願います。
もしここで東洋人が一緒に来て欲しいと言えば何も言わずついて来てくれるでしょう
しかし、それはソフィアにとって同時に愛する家族を捨てる事も意味しています。
果たして本当にそれで良いのでしょうか。

私は東洋人は年長者として、ここは残るように言うべきではないかと思うのです。
例えここで別れても永遠の別れではない。
実際、セーラやロリィのエンディングでは(実現可能かはともかく)、再会の約束をしています。
東洋人もドルファンの政情をただ見守るだけでなく、外からでも出来ることはあるはず。
ソフィアにだって叶えたい夢があったはずです。
戻ってもソフィアはもう周りにただ振り回されるだけの存在ではないでしょう。
婚約は自分の意思で破棄するはずですし、家族との関係も変わってくるはずです。

それで、ソフィアのエンディングの舞台が波止場でなく、
ソフィアにとっての「夢」の象徴であるシアターだったのではないか、
あるいは、そのまま東洋人と国外逃亡した先に、果たして「明日を夢見て」の歌詞に
象徴されるようなソフィアの望む未来はあるのか、(むしろ閉ざされるのではないか)
ソフィアはドルファンに残り、東洋人を待つという方が本当に「明日を夢見る」事に
なるのではないか、という深読みも出来るのではないでしょうか?
歌の元ネタと思われる映画があります
明日を夢見て(1995) - goo 映画
(情報提供:匿名希望様)



卒業(1967)という映画のオマージュと思われます
こちらは将来への不安を漂わせたラストだったようです


余談ですが、私はファーストプレイの時は一緒に
出国するものと無条件で思ってました














後で気づいたのですが、ヴォーカライズのドラマパート
(Track11)では、そういう展開になっているようです 

Es Discovery様に利他主義、利己主義に関するアドバイスを頂きました。

協力者様に感謝いたします。 ありがとうございました。


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